僕と上田さん、中井とサブちゃんがザイルを組んで2パーティーに別れて登攀開始だ。下部氷壁は標高が低いため氷が柔らかく傾斜も緩いため、アイゼン、ピッケルが気持ちよく刺さり快調に登っていく。
取り付きの下部氷壁 上田さん |
下部氷壁上部 左よりサブちゃん、上田さん、私 |
下部氷壁 |
数ピッチで最初の難関の垂壁の下に出る。1938年、この岩壁の初登攀者リカルド・カシンは下部氷壁から真っ直ぐに伸びるルンゼ状の難しいクラックを登った。このルートはカシンクラックと呼ばれる。
第二次世界大戦を挟んで1945年、第二登のガストン・レビュファーは垂壁の下を左にトラバースして岩壁が狭くなった所から、非常に困難なクラックを登った。こちらはレビュファークラックと呼ばれる。カシンの登ったルートは岩稜を真っ直ぐ登る自然なラインだが落石が集中し、非常に危険である。そのためレビュファー以降殆どの登攀はレビュファークラックをたどった。
余談だがカシンを師と仰ぐワルティナ・ボナティはカシンクラックを登り忠実にカシンのルートをたどった。
僕たちは危険の少ないレビュファークラックへと垂壁の下をトラバースした。レビュファークラックは出だしからかぶさったクラックでリュックサックを担いだままの僕はフリーを諦めて前の登攀者が残していったハーケンにアブミを掛け人口登攀を交えて登った。
オーバーハングしたクラックを越えクラックをフリーで登っていくとまったく割れ目のないスラブに出た。2メートル程右上にハーケンがみえるが、このトラバースが6級の一歩だ。一センチ程の突起に足を伸ばすのだがホールド(手掛かり)は無くこの一センチの突起一つに身を任せるのだが、自信がない。足を伸ばして突起に乗せ、体重を移行しょうとするが、ふんぎりがつかない。同じ動作を何度も繰り返して、これはダメだと諦めた。空身なら行けそうだが、この姿勢でリュックサックをおろすのは無理である。
日本を出発する時にこの北壁を登った経験のある兄から「レビュファークラックくらいザックを担いだまま登らなくてはな。」と言われ、またロッククライミングに自信を持っていた僕は、ザックを背負ったままこの6級のピッチに臨んだ事を後悔した。しかしこのまま行くしかない。引き返そうにもハング上の垂壁はフリーできたのでクライミングダウンも厄介だし、何よりも登れなかったとなると悔しい。
僕は右上に見えるハーケンを見ながら最後の手段に出た。ハーケンの頭は3センチ程岩から出ている。投げ縄だ。腰のザイルを引き寄せ十分な弛みを作りその弛んだザイルを2メートル先のハーケンの頭に投げて引っ掛けるのだ。上手くいかないが何度も繰り返しやっとハーケンに引っ掛かった。ハーケンからザイルが外れないように慎重に手繰り、ピンッと張る。ザイルに加重をかけていればハーケンから外れる事はないが少しでも外側に加重がかかると外れてしまう。
踏み出せなかった1センチの突起に足を乗せ垂直の壁にそってザイルを引っ張り上半身のバランスの補助にして6級の一歩を渡った。横方向にあったハーケンが右上の位置にきたので、今度はハーケンに掛かったザイルに下方向に体重を掛けてぶら下がり、ジワリと振り子のように振って右手の岩の突起に手を掛け一気に身体をバンドの上に引き上げた。
バンドに腰を下ろして一息入れる。この1ピッチにどのくらいの時間がかかったのだろうか、登っている本人は必死で時間の経過が分からない。30分か1時間か、下で確保をしていた上田さんはザイルがピタリと止まり動かなくなったが、ハングから上は見えないので、僕が何をしているかさっぱり分からない。深夜からの行動で疲れもありビレイをしながら眠たくてしかたがなかったそうだ。
レビュファークラックを登る私 |
私を確保する上田さん |
このピッチは全員でザイルを繋げて僕が苦労した所はゴボウといってトップからのザイルをつたって登った。皆が「チャンさん(私のあだ名)よく登ったな」と感心するが、ハーケンへの投げ縄は秘密である。レビュファークラックの登攀で北壁の最初の難関は突破した。
次に待ち受ける難所、75メートルのジェードルへ向けてやさしい岩を数ピッチ登る。75メートルのジェードルのすぐ下で四人が足を伸ばして座れるほどの大きなテラスに出た。もう七時をまわっている、今日はこのテラスでビバーグにする。緯度の高いアルプスでは日没が遅く九時頃まで明るい。日没までまだ一時間ほどあるので明日に備えて75メートルのジェードルをワンピッチ登りザイルを固定した。
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