レショ小屋には僕たち以外に二人連れのフランス人パーティーがいるだけだった。アルプスの登山は早朝の出発が鉄則で、このような山小屋に泊まる時は深夜の1時2時の出発が当たり前である。夕食をとると早々とベッドに潜り込むがなかなか眠れない。やっと寝付いたと思ったら出発の時刻でフランス人パーティーはすでに準備を終えて小屋を出ようとしていた。僕らは大急ぎでリュックに装備を詰め込んで彼らを追うようにレショ小屋を後にした。
星空の下をヘッドライトの明かりを頼りにレショ氷河へ急斜面を下る。フランス人パーティーは目的の山が違うようで、氷河へ降り立った時には彼らの姿は見えなくなっていた。僕たちは氷河を横切り対岸の斜面の上に広がるモレーン(岩の堆積地)へ向かった。このモレーンと北壁の間はレショ氷河の最上部にあたり、複雑に入り組んだ氷塊が氷の滝のように積み重なっている。
目指す北壁のウォーカーバットレスは目の前にあるのだが、北壁へ取り付くためには北壁と氷河の間に横たわる長いクレパスがあり、モレーン地帯を右方向に登って巻かなければならないところが氷河からモレーンに登る手前で中井がここからウォーカーバットレスへ真っ直ぐ行くべきだと言い出した。僕はルートの下調べを十分していたので、更に左にトラバースすべきだと主張したが彼は自分の意見を曲げない。
確かに私の主張するルートは一旦はウォーカーバットレスから遠ざかる。氷河のすぐ向こうにウォーカーバットレスは氷河のすぐ向こうに見え、中井が主張するように真っ直ぐに登れば三十分もしないで北壁の真下に着きそうだ。しかしそれは罠だ。ここからは見えないが氷河の向こうには北壁を隔てるクレパスが隠れているのだ。過去の登攀者の記録にもそう書かれているではないか。僕がいくら説明しても彼は主張を変えず、僕は頭に来て投げ出した。どうにでもなれ!おまえの主張で北壁を登れなくても、僕はしらないぞ!
僕たちは中井の主張に折れ、ウォーカーバットレス目指して真っ直ぐに氷河へ突っ込んで行った。
氷河の最上部はクレパスが幾重にも連なる危険地帯だ。それまでに積もった雪が固まってクレパスの表面を覆っている。ヒドン(隠れた)クレパスと呼ばれ、氷河を歩いていると突然足元が崩れてクレパスへ吸い込まれる。ヒドンクレパスは多くの犠牲者を出している。陽は昇りすっかり明るくなったが、晴天による冷え込みは続いていて、表面の雪はしっかりと凍り、アイゼンが気持ちよくくい込む。僕らはザイルで繋ぎあってクレパス地帯を快調に進んだ。そしてウォーカーバットレスが目の前に迫り、本当にあと少しで北壁に取り付けるという所まできて、最後のクレパスに阻まれた。
十メートルを越す割れ目が城郭を囲む壕の様に北壁の付け根に横たわっている。クレパスの底は深すぎて分からない。迂回できるような箇所は右にも左にも無い。僕は予想していたとは言え愕然とした。このクレパスを渡るのは不可能だ。引き返して、もう一度正しいアプローチを登り直すしかない。
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真下から見上げるウォーカーバットレス。ここまで来て、クレパスに拒まれ引き返す。
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中井は無言だった。サブちゃんも上田さんも言葉は少なく愚痴は言わない。たった今登って来た氷河を引き返す。すでに日は高く登って気温は急激に上昇しだした。登る時には凍って引き締まっていた雪面が緩み、踏み出した足は雪面に沈みだした。
突然身体をあずけた片足がズボッと雪面を突き破ってヒドンクレパスの空洞へ落ち込んだ。股のところまで落ちて止まったので慌ててもう片方の足の膝をついて抜け出そうとするとその膝がググっと沈み込んでいく。腹ばいになって、設置面積を増やして体重を分散しジワリと這い出る。上田さんとザイルで結ばれているとはいえ、クレパスに落ち込めば命の保証はない。足を踏み出す前にピッケルを深く刺し込んでクレパスが隠れていないか確認しながら進むが、何度もヒドンクレパスに足を突っ込む。不安な下降を続け、危険なクレパス地帯を抜け出した時には8時近くになっていた。
振り出しに戻った訳だが、ここまでの行動でかなり疲れを感じていた。予定ではこの時間には北壁に取り付き最初の難関、レビュファークラックを登っているはずだった。これだけの時間出遅れると、登山を続行すべきか考えてしまう。
誰かが帰ろうと言えば、直ぐにでも退却しそうな雰囲気だ。僕はここで引き返したら、もう二度とグランド・ジョラスへ挑戦することはないと思った。グレポンの時の二の舞はご免だ。「行くぞ!」もう何日も晴天が続いている。アルプスでは稀な事だ。この高気圧が去ったら、当分次のチャンスは来ない。なによりもサブちゃんと上田さんは休暇が終わってしまう、ラストチャンスなのだ。
僕らはモレーンについたトレースを頼りに進みだした。アルプスの北壁へ向かっているとは思えない日差しに汗をかきながらの登りだ。やがて北壁に近ずくと垂直の岩壁が太陽を遮り急に気温が下がる。氷河と岩壁の縁を左へトラバースしていくと行き止まりになった所がウォーカーバットレスの取付きだ。時計をみるともう9時だ。ハーケンやカラビナの登攀用具を身に付け、ザイルを繋ぎあい、北壁へ最初の一歩を踏み出した。やっとグランドジョラス北壁の登攀開始だ、なんと手間取った事か。
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