2016年9月25日日曜日

グランド・ジョラス北壁を目指して

 グランドジョラス北壁は僕にとって初めてのビックウォールクライミングの登攀だった。
今どきアルプス三大北壁など見向きもされないが1970年代では、まだ憧れの岩壁だ。

グランド・ジョラス北壁

 1977年23才の時、初めてのアルプスでは天候に恵まれなかった。モンブランもアイガーも悪天の中で頂きに立つ事が出来なかった。唯一登ったのは、僅か200メートルの岩壁のレム針峰だけだった。
 標高の高いアルプスでの登攀は、技術的な問題もさることながら天候に大きく左右される。もっとも実力が伴わなかったことは事実である。
 50年ぶりの悪天に襲われたこの夏のシーズン、モンブラン山郡だけで50人の死者を出し、マッターホルンでも二桁の死者だった。僕は、ほうほうのていでアルプスから逃げ出し観光旅行へと切り替えた。

 1979年7月、再び訪れたアルプスは稀に見る好天で出迎えてくれた。メンバーは前回のアルプスでも一緒だった仲井雄二君、アルプスは初めての広津三郎君、上田崇君そして私江藤文敏の4人だ。

シャモニーの某山中でのベースキャンプ。左より広津、上田、江藤、中井


北壁挑戦へ向けて現地トレーニング

 前回も登ったレム針峰で足慣らしの後、高所順応のためモンブランへ向った。そして途中、宿泊する標高4000メートルのグーテ小屋で、物の見事に高山病にやられてしまった。空気の薄さではなく、小屋の空気の悪さにやられたのである。
 グーテ小屋は小屋とはいえ小さなホテルほどあり、モンブランへ登る登山者で賑わっていた。当事は煙草も門題とされなかった時代で小屋の中は濛々としていた。空気の薄さに加えて、空気の悪さでグーテ小屋に入ってからというもの激しい頭痛に見舞われた。
 一晩中頭痛に襲われ、翌日の登頂を諦め下山した。仲井だけは元気で途中知り合ったアフガニスタン人のナザーリー・バロと一諸にモンブラン登頂をはたしてきた。

モンブラン目指して

エギュー・グーテ、グーテ小屋への登り、標高差500メートルの岩場。

グーテ小屋にて私と上田さん

未明のモンブランへ

アフガニスタン人のナザーレ・バロ



 アルプスでは好天が続いていた。僕らの目的はグランドジョラス北壁だが自信がある訳ではなかった。しかも技術的に全く問題のないモンブランでは高山病による頭痛とはいえ登頂を断念している。グランドジョラスへ向かう前にもう一本、腕試しとトレーニングを兼ねてどこか一本登っておきたかった。そこで選んだのがグレポン東壁だ。
 グランドジョラス北壁は標高差1,200メートルの6級ルート、対してグレポン東壁は標高差800メートル5級のワンランク下のルートだ。東壁は陽が良くあたるため氷は殆ど無く純粋なロッククライミングのルートで氷壁の経験の少ない僕らには向いている。

 グレポンは幾つもの岩峰を連ねたシャモニー針峰郡の中の一つで、その東壁はメールドグラス氷河に面している。

メールドグラス氷河はモンブラン山郡で一番大きな氷河だ。右側にシャモニー針峰郡、左側にはドリューやベルト針峰、そして上部から分かれたレショ氷河の奥にグランドジョラスがある。僕らの目指しているグランドジョラス北壁へのアプローチの下調べにもなる。


メール・ド・グラス氷河 右上の支流がレショ氷河 グレポン東壁下部より撮影

2016年9月23日金曜日

グレポン東壁へ

 シャモニーのキャンプ地を出発した僕達はメールドグラス氷河の末端、モンタンベールまで登山電車で行き、グレポン東壁目指して氷河を遡った。ドリュー、クルト針峰、ロドワット、グランシャルモ、そしてエギュー・ド・グレポン、3000メートルから4000メートルの山々がコバルトブルーの空にそびえ立つ。

メールドグラス氷河 中央トゥール・ロンド 右はシャモニー針峰群

メール・ド・グラス氷河右岸のシャモニー針峰群。中央がグレポン東壁


メールドグラス氷河左岸の針峰群 左よりドリュー、ヴェルト針峰、レ・ドロワット

メールドグラス氷河を遡る


 強い日射しを受けながら氷河の上を二時間ほどでグレポンの麓ヘたどり付いた。氷河とお別れして東壁下部の非難小屋を目指して岩場を登る。通常はアルベール小屋ヘ泊まり翌日グレポンを目指すのだが、二食ベット付きの山小屋ホテルは宿泊費が高く贅沢だ。アルベール小屋を通り越して東壁下部の無人の非難小屋で一夜を過ごす事にしていた。(勿論この小屋は無料だ。)





アルベール小屋が中央に見える。後ろがグレポン東壁の下部



 ところが登っても登っても小屋が見つからない。想像していたよりも東壁の下部は複雑で大きく、小屋を探して歩き回っているうちに日が暮れてきた。小屋泊まりを諦めて岩場でビバーグをする事にした。日没、花崗岩と氷雪の山々は残照を受けて美しく輝く。

ビバーグ地のツールツージュ(赤い塔)にて


ツールツージュでのビバーグ 手前からサブちゃん、私、上田さん

左よりグランド・ジョラス、ドーム・ド・ロシュフォール、モン・マレ

夕暮れのロシュフォール針峰(左)とダン・デ・ジュアン(巨人の牙)(右)
 翌朝、7時から行動開始と出遅れる。グレポン東壁の登攀ルートは左端の岩稜だ。東壁の付けねを目指して緩やかな岩場を登り傾斜のきつくなってきた所で左の岩稜へ向けてトラバースして行く。
 僕はこの花崗岩の岩壁に対して、既に大きな失敗をしていた。それは登山靴である。グランドジョラスは標高4200メートル、マッターホルンは4400メートル、岩と氷の山でアイゼンの着用を想定していた。それに対応すべく頑丈な登山靴を履いていたのだ。それはドイツ製の靴でヒマラヤの7000メートルクラスの山でも耐えられるという、恐ろしく頑丈な登山靴だった。そしてそれは花崗岩の岩壁には恐ろしく不向きな登山靴だった。
 ガチガチの靴底でフリクションを効かせるのは容易ではない。凍傷から指先を護る為に丸く幅広に作られた爪先は花崗岩の登攀に特有の細いクラックに引っ掛からない。
アプローチの易しい岩場で神経を使い思わぬ時間をくってしまう。
 みると既に10時になろうとしている。頭上に聳える岩壁を見上げながら、800メートルの東壁を登り、反対側の400メートルの西壁を下り、更に氷河を降って、今日中にシャモニーまで帰りつけるのか、全く自信がもてなかった。僕たち4人は同じ思いだったようで、誰からともなく撤退と決めこんだ。

グレポン東壁での中井。 背景はグランド・ジョラス(左)ロシュフォール針峰(中央)
ダン・デュ・ジェアン(右)

 メールドグラス氷河目指して下って行くのだが、ここまで迷い迷い来たのだ、帰りも案の定難儀な下降となった。
 道などある訳ではない、岩場や傾斜の緩い氷壁を降ってメールドグラス氷河をすぐ真下にした処で100メートル近くの断崖に阻まれた。
 アプザイレン(懸垂下降)で降るのだがザイルはドッペル(二重)にして40メートル、一回のアプザイレンで済めば問題は無いのだが二回、三回となると厄介である。中継点にうまい具合にテラスかバンドがあれば良いが、なければザイルにぶら下がって支点のハーケンを打たなければならない。
 断崖の上を歩きながら下降地点を探す。幸い氷河まで続くチムニーを見つけて二度のアプザイレンでメールドグラス氷河へ降り立つ事ができた。


メール・ド・グラス氷河へ降りる最後の岩壁の下降。中央にいるのは中井

メールドグラス氷河にたどり着く


 すでに太陽は傾き急ぎ足でメールドグラス氷河を急ぎ足で下りモンタンベール駅へ着いた時は、すでに最終電車の出発した後だった。僕たち四人はシャモニーへと続く長い線路の上をとぼとぼと歩いた。


この写真はモンブランの帰り、この時も電車に間に合わずに線路を歩いて下山


2016年9月21日水曜日

グランド・ジョラス北壁アプローチ-1

 僕と仲井は会社を辞めてアルプスへやって来たので時間はたっぷりあるが、サブちゃんと上田さんは勤め人で三週間程の休暇をとっての遠征だ。今までの山行でかなりの日数を費やしている。残りの日数を考えるとあまり余裕がない。とにかくグランドジョラス北壁へアタックだ。登れなくても挑戦だけはしたい。僕たちは三日間の休養をとって再びモンタンベール行きの登山電車へ乗り込んだ。

ベースキャンプでの食事風景

ジョラス挑戦を前にピッケルを砥ぐ上田さん

 グレポンの時と同じようにモンタンベール駅で登山電車を降りてメールドグラス氷河をさかのぼる。
 グレポンの麓を過ぎた辺りから左に延びる支流のレショ氷河へ入るとグランドジョラス北壁がその姿を現した。屏風の様に聳える山容は三つの頂を持ち、氷河からそれぞれの頂へ伸びる三つの岩稜で構成されている。
左からウオーカバットレス、中央バットレス、クロバットレスと呼ばれ、それぞれに登攀ルートがある。1200メートルの標高差を持つウオーカバットレスが最も大きく困難で人気が高い。

僕達の目標は当然ウオーカバットレスだ。このバットレスには近年、非常に困難なルートが開かれたが僕らの登るルートは1934年にイタリアの名クライマー、リカルド・カシンがこのバットレスを初登攀した時のクラッシックルートである。
ジョラス目指してレショ氷河を登る。氷河は上にいくほど傾斜がきつくなり、スケールの大きさは今までの経験とは違っていてペースが狂い疲れが激しい。


メール・ド・グラス氷河にて、中井の注文でポーズをる上田さんと私。

メール・ド・グラス氷河からレショ氷河へ入るとグランド・ジョラスが姿を現す。

標高差1200メートルの北壁が圧倒的な迫力でせまってくる。
左からウォーカーピーク、ウィンパーピーク、クロピーク。
左の岩稜がウォーカーバットレス

氷河の左岸上にジョラス登攀のベースになるレショ小屋が見えた。氷河から抜け出し急なガレ場を登りレショ小屋へたどり着く。
小屋へ着いた時には急な登りで汗びっしょりになっていた。レショ小屋は花崗岩の巨大な一枚岩に守られるようにして建てられたアルミ壁の20坪ほどの平屋建てで食事も用意してくれる。いよいよ明日はグランドジョラス北壁の挑戦だ。残照に輝く山々を眺めながら期待と不安が交差する。


レショ氷河からレショ小屋への登り

レショ小屋

レショ小屋にて手前から、中井、サブちゃん、上田さん。




2016年9月20日火曜日

グランド・ジョラス北壁アプローチ-2

 レショ小屋には僕たち以外に二人連れのフランス人パーティーがいるだけだった。アルプスの登山は早朝の出発が鉄則で、このような山小屋に泊まる時は深夜の1時2時の出発が当たり前である。夕食をとると早々とベッドに潜り込むがなかなか眠れない。やっと寝付いたと思ったら出発の時刻でフランス人パーティーはすでに準備を終えて小屋を出ようとしていた。僕らは大急ぎでリュックに装備を詰め込んで彼らを追うようにレショ小屋を後にした。
 星空の下をヘッドライトの明かりを頼りにレショ氷河へ急斜面を下る。フランス人パーティーは目的の山が違うようで、氷河へ降り立った時には彼らの姿は見えなくなっていた。僕たちは氷河を横切り対岸の斜面の上に広がるモレーン(岩の堆積地)へ向かった。このモレーンと北壁の間はレショ氷河の最上部にあたり、複雑に入り組んだ氷塊が氷の滝のように積み重なっている。
 目指す北壁のウォーカーバットレスは目の前にあるのだが、北壁へ取り付くためには北壁と氷河の間に横たわる長いクレパスがあり、モレーン地帯を右方向に登って巻かなければならないところが氷河からモレーンに登る手前で中井がここからウォーカーバットレスへ真っ直ぐ行くべきだと言い出した。僕はルートの下調べを十分していたので、更に左にトラバースすべきだと主張したが彼は自分の意見を曲げない。
 確かに私の主張するルートは一旦はウォーカーバットレスから遠ざかる。氷河のすぐ向こうにウォーカーバットレスは氷河のすぐ向こうに見え、中井が主張するように真っ直ぐに登れば三十分もしないで北壁の真下に着きそうだ。しかしそれは罠だ。ここからは見えないが氷河の向こうには北壁を隔てるクレパスが隠れているのだ。過去の登攀者の記録にもそう書かれているではないか。僕がいくら説明しても彼は主張を変えず、僕は頭に来て投げ出した。どうにでもなれ!おまえの主張で北壁を登れなくても、僕はしらないぞ!
 僕たちは中井の主張に折れ、ウォーカーバットレス目指して真っ直ぐに氷河へ突っ込んで行った。
 氷河の最上部はクレパスが幾重にも連なる危険地帯だ。それまでに積もった雪が固まってクレパスの表面を覆っている。ヒドン(隠れた)クレパスと呼ばれ、氷河を歩いていると突然足元が崩れてクレパスへ吸い込まれる。ヒドンクレパスは多くの犠牲者を出している。陽は昇りすっかり明るくなったが、晴天による冷え込みは続いていて、表面の雪はしっかりと凍り、アイゼンが気持ちよくくい込む。僕らはザイルで繋ぎあってクレパス地帯を快調に進んだ。そしてウォーカーバットレスが目の前に迫り、本当にあと少しで北壁に取り付けるという所まできて、最後のクレパスに阻まれた。
 十メートルを越す割れ目が城郭を囲む壕の様に北壁の付け根に横たわっている。クレパスの底は深すぎて分からない。迂回できるような箇所は右にも左にも無い。僕は予想していたとは言え愕然とした。このクレパスを渡るのは不可能だ。引き返して、もう一度正しいアプローチを登り直すしかない。

真下から見上げるウォーカーバットレス。ここまで来て、クレパスに拒まれ引き返す。

 中井は無言だった。サブちゃんも上田さんも言葉は少なく愚痴は言わない。たった今登って来た氷河を引き返す。すでに日は高く登って気温は急激に上昇しだした。登る時には凍って引き締まっていた雪面が緩み、踏み出した足は雪面に沈みだした。
 突然身体をあずけた片足がズボッと雪面を突き破ってヒドンクレパスの空洞へ落ち込んだ。股のところまで落ちて止まったので慌ててもう片方の足の膝をついて抜け出そうとするとその膝がググっと沈み込んでいく。腹ばいになって、設置面積を増やして体重を分散しジワリと這い出る。上田さんとザイルで結ばれているとはいえ、クレパスに落ち込めば命の保証はない。足を踏み出す前にピッケルを深く刺し込んでクレパスが隠れていないか確認しながら進むが、何度もヒドンクレパスに足を突っ込む。不安な下降を続け、危険なクレパス地帯を抜け出した時には8時近くになっていた。
 振り出しに戻った訳だが、ここまでの行動でかなり疲れを感じていた。予定ではこの時間には北壁に取り付き最初の難関、レビュファークラックを登っているはずだった。これだけの時間出遅れると、登山を続行すべきか考えてしまう。

 誰かが帰ろうと言えば、直ぐにでも退却しそうな雰囲気だ。僕はここで引き返したら、もう二度とグランド・ジョラスへ挑戦することはないと思った。グレポンの時の二の舞はご免だ。「行くぞ!」もう何日も晴天が続いている。アルプスでは稀な事だ。この高気圧が去ったら、当分次のチャンスは来ない。なによりもサブちゃんと上田さんは休暇が終わってしまう、ラストチャンスなのだ。

 僕らはモレーンについたトレースを頼りに進みだした。アルプスの北壁へ向かっているとは思えない日差しに汗をかきながらの登りだ。やがて北壁に近ずくと垂直の岩壁が太陽を遮り急に気温が下がる。氷河と岩壁の縁を左へトラバースしていくと行き止まりになった所がウォーカーバットレスの取付きだ。時計をみるともう9時だ。ハーケンやカラビナの登攀用具を身に付け、ザイルを繋ぎあい、北壁へ最初の一歩を踏み出した。やっとグランドジョラス北壁の登攀開始だ、なんと手間取った事か。

2016年9月18日日曜日

グランド・ジョラス北壁アタック-レビュファークラック

 僕と上田さん、中井とサブちゃんがザイルを組んで2パーティーに別れて登攀開始だ。下部氷壁は標高が低いため氷が柔らかく傾斜も緩いため、アイゼン、ピッケルが気持ちよく刺さり快調に登っていく。

取り付きの下部氷壁 上田さん

下部氷壁上部 左よりサブちゃん、上田さん、私

下部氷壁


 数ピッチで最初の難関の垂壁の下に出る。1938年、この岩壁の初登攀者リカルド・カシンは下部氷壁から真っ直ぐに伸びるルンゼ状の難しいクラックを登った。このルートはカシンクラックと呼ばれる。
 第二次世界大戦を挟んで1945年、第二登のガストン・レビュファーは垂壁の下を左にトラバースして岩壁が狭くなった所から、非常に困難なクラックを登った。こちらはレビュファークラックと呼ばれる。カシンの登ったルートは岩稜を真っ直ぐ登る自然なラインだが落石が集中し、非常に危険である。そのためレビュファー以降殆どの登攀はレビュファークラックをたどった。
 余談だがカシンを師と仰ぐワルティナ・ボナティはカシンクラックを登り忠実にカシンのルートをたどった。

 僕たちは危険の少ないレビュファークラックへと垂壁の下をトラバースした。レビュファークラックは出だしからかぶさったクラックでリュックサックを担いだままの僕はフリーを諦めて前の登攀者が残していったハーケンにアブミを掛け人口登攀を交えて登った。
 オーバーハングしたクラックを越えクラックをフリーで登っていくとまったく割れ目のないスラブに出た。2メートル程右上にハーケンがみえるが、このトラバースが6級の一歩だ。一センチ程の突起に足を伸ばすのだがホールド(手掛かり)は無くこの一センチの突起一つに身を任せるのだが、自信がない。足を伸ばして突起に乗せ、体重を移行しょうとするが、ふんぎりがつかない。同じ動作を何度も繰り返して、これはダメだと諦めた。空身なら行けそうだが、この姿勢でリュックサックをおろすのは無理である。
 日本を出発する時にこの北壁を登った経験のある兄から「レビュファークラックくらいザックを担いだまま登らなくてはな。」と言われ、またロッククライミングに自信を持っていた僕は、ザックを背負ったままこの6級のピッチに臨んだ事を後悔した。しかしこのまま行くしかない。引き返そうにもハング上の垂壁はフリーできたのでクライミングダウンも厄介だし、何よりも登れなかったとなると悔しい。
 僕は右上に見えるハーケンを見ながら最後の手段に出た。ハーケンの頭は3センチ程岩から出ている。投げ縄だ。腰のザイルを引き寄せ十分な弛みを作りその弛んだザイルを2メートル先のハーケンの頭に投げて引っ掛けるのだ。上手くいかないが何度も繰り返しやっとハーケンに引っ掛かった。ハーケンからザイルが外れないように慎重に手繰り、ピンッと張る。ザイルに加重をかけていればハーケンから外れる事はないが少しでも外側に加重がかかると外れてしまう。
 踏み出せなかった1センチの突起に足を乗せ垂直の壁にそってザイルを引っ張り上半身のバランスの補助にして6級の一歩を渡った。横方向にあったハーケンが右上の位置にきたので、今度はハーケンに掛かったザイルに下方向に体重を掛けてぶら下がり、ジワリと振り子のように振って右手の岩の突起に手を掛け一気に身体をバンドの上に引き上げた。

 バンドに腰を下ろして一息入れる。この1ピッチにどのくらいの時間がかかったのだろうか、登っている本人は必死で時間の経過が分からない。30分か1時間か、下で確保をしていた上田さんはザイルがピタリと止まり動かなくなったが、ハングから上は見えないので、僕が何をしているかさっぱり分からない。深夜からの行動で疲れもありビレイをしながら眠たくてしかたがなかったそうだ。

レビュファークラックを登る私

私を確保する上田さん

 このピッチは全員でザイルを繋げて僕が苦労した所はゴボウといってトップからのザイルをつたって登った。皆が「チャンさん(私のあだ名)よく登ったな」と感心するが、ハーケンへの投げ縄は秘密である。レビュファークラックの登攀で北壁の最初の難関は突破した。

 次に待ち受ける難所、75メートルのジェードルへ向けてやさしい岩を数ピッチ登る。75メートルのジェードルのすぐ下で四人が足を伸ばして座れるほどの大きなテラスに出た。もう七時をまわっている、今日はこのテラスでビバーグにする。緯度の高いアルプスでは日没が遅く九時頃まで明るい。日没までまだ一時間ほどあるので明日に備えて75メートルのジェードルをワンピッチ登りザイルを固定した。

2016年9月17日土曜日

75メートルのジェードル、氷のチムニー

 寒さでなかなか眠むれない。しかし疲れがいつのまにか寝むりに誘い込む。目が覚めるとすでに青空が広がっていた。軽い朝食を取りすぐに登攀にとりかかる。昨日張っておいたザイルを伝いながら75メートルのジェードルを登る。本来なら人口登攀の時間のかかるピッチだが今までの登攀者が打ったハーケンが残っているので利用させてもらう。
 このように岩壁に残されたハーケンを残置ハーケンといい人口登攀のルートは初登攀時に比べて随分と易しくなっている。またルートの案内役にもなっていて頭上のハーケンを追っていけばルートファンディングの必要はないのだ。僕たちの実力でも登れるのは、この残置ハーケンのおかげもあり複雑な気持ちである。しかしこの後、残置ハーケンに騙されてとんでもない失敗をしでかす事になる。

75メートルのジェードルを登る私

 この北壁の二つ目のの難関、75メートルのジェードルは難なく登り、氷のチムニーと呼ばれる岩の割れ目の登攀にかかる。この割れ目は人の肩幅ほどで中はびっしりと氷が張り付いている。アイゼンを装着して登り始める。割れ目の途中から右のルンゼに入り上部のオーバーハングを巻くように振り子トラバースをするのだが、この5級にランクされた氷のチムニーは僕には4級以下に感じて、わざわざ『氷のチムニー』と名付けられた難所の一つとは思えなかった。上を見ると残置ハーケンがある。残置ハーケンへ向かって割れ目は伸び、見るからに難しそうだ。僕はこの箇所こそが氷のチムニーだと思い右へのトラバース地点を過ぎて残置ハーケン目指して更に直登した。

 割れ目は傾斜を増し垂直のフェースに消えた。残置ハーケンにザイルを通して5級プラスはあると思われるるフェースを10メートル程登ると全く手掛かりが無くなった。右に小さなスタンスとホールドが伸びている。ここがトラバース地点かと思ったが、今度は余りに難しい。ハーケンを打ち込むリスなどない一枚岩だ。4メートルトラバースした所で見事にホールドもスタンスも無くなった。行き止まりだ、完全にルートを間違った。
 見渡すと、右も左も上も下も手掛かり一つ無い絶壁だ。アイゼンの爪で1センチのスタンスに立ち、その下には500メートルの空間が広がっている。とんでもない空間にいる自分が恐しくなってくる。引き返すにも3メートルのトラバースはかなり厳しい。上りより下りほうが難しいのはトラバースも一緒だ。最後にザイルを通したハーケンから10メートル、ここで落ちたらその倍の20メートルは落下する事になる。ハーケンがその衝撃に耐えられるか。耐えたとしてもかなりの負傷を負うだろう。絶対に落ちる訳にはいかない。
 アイゼンを装着したままでのクライミングダウンは不安だった。アイゼンをはずそうと片足に体重をあずけ、空いた方の足をそーと引き上げ片手をホールドからはなしてアイゼンを靴に固定しているナイロンバンドを緩める。500メートルの空間での曲芸だ。不安定な姿勢で片手だけでの作業を慎重に行う。右足のアイゼンは上手く外れた。身体を支える足を入れ替え、もう片方のアイゼンを外しにかかる。靴からアイゼンが外れたかなと思った瞬間、指先からアイゼンバンドがスルリと抜け、アイゼンがカランと岩壁を跳ねて虚空へと消えていった。

 しまったと思ったが後の祭りだ。考えても始まらない、今はこの窮地を脱する事が先だ。アイゼンを外した靴底のビブラムソールが自分の足裏のように小さなスタンスを捉える。残置ハーケンまでクライミングダウンすると緊張感から解放されほっと一息付いた。後はハーケンに捨て縄をかけ支点にし、ザイルを通し釣瓶のよう滑り降りた。
 下では中井とサブちゃんが『凍りのチムニー』から抜け出し振り子トラバースへと取りかかっている。よく見ると振り子トラバースのハング下には固定ザイルが残されている。中井が「こっち、こっち!」と呼ぶ。あの固定ザイルに気がつかなかったとは、なんていう間抜けなんだ。頭上の残置ハーケンに騙されて随分と時間をロスしてしまった。そしてアイゼンを片方。ウォーカーバットレスは基本的に岩のルートだ。上部に『三角の氷壁』があるが傾斜は緩い。上田さんにトップで行ってもらえば片足でも何とかなるだろう。気を取り直して中井達の後を追う。


氷のチムニーを登るサブちゃん


氷のチムニーを登るサブちゃん




上田さん



 中井達とトップを入れ替わりしながら登っていると、後ろから外人の二人組が登って来た。僕らに追いつくと片手をひょいっと上げた、その手には僕の落としたアイゼンが握られていた。
 彼らが『75メートルのジェードル』を登っていると突然リュックサックの上にドサッとアイゼンが落ちてきた。しかも小さな雨蓋の上に引っ掛かって止まったというのだ。100メートルの上空から落ちてきたアイゼンを彼のリュックサックが見事にキャッチした訳だ。彼はビックリしたが、状況を察して親切にも届けてくれたのだ。彼らに何度も礼を言った。しかしこんな奇跡みたいな事も起こるんだなと感心したものである。
 スピードの速い彼らに先を譲って登攀を開始をした。北壁の500メートルを残した所で夕暮れを迎えた。広くはないが4人が腰をおろせるテラスで二日目の夜を迎える。今日は僕のルートファンティングのミスで予定の高度をかせげなかった。今夜のビバーグ地点のすぐ上に最大の難関ともいえる灰色のツルムと呼ばれる200メートルのスラブが立ちはだかっている。本来ならこの灰色のツルムを超えた所まで登っていたかったのだが。
 標高が高くなった分だけ寒さがこたえる。しかし寒いと言うことは天気が良いという事だ。岩に張り付いた氷をピッケルで削りメタ(固形燃料)で沸かして紅茶を入れる。バケットとサラミソーセージ、チーズ、レモンの夕食を取り、残り少なくなった煙草をくわえた。

三十年ほども後になって、僕の最も尊敬するアルピニスト、ワルティナ・ボナティの登攀記『わが山々へ』を読み返していて、なんとボナティも同じ所でルートを間違っていた事を知った。ボナティの弁によれば、氷のチムニーから更にツルツルのスラブを登りオーバーハングした一枚岩で身動きが取れなくなったというのだ。
僕は高校生の時に何度もこの登攀記を読んでいたのだが、その7年後にグランド・ジョラスへ臨んだ時にはすっかり忘れていたのだ。技術的な事や、ルートに直接関わる記事ばかり読んで偉大な先人の文章は頭から離れていたという事だ。

しかし尊敬するボナティと同じ所でルートを間違ったなんて、なんだか嬉しくなった。もしかしたら、あの残置ハーケンはボナティが打ち込んだ物かもしれない、などと思うと楽しくなってくる。


氷をかじって咽の渇きを潤すサブちゃん